和骨董大辞典

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竹内栖鳳(たけうちせいほう)

 

江戸時代末期、元治の時代に生まれ、昭和前期にかけて活躍した画家です。

江戸から明治、大正、昭和と長きにわたって活動し、日本画家として国内外でその名が知られています。

 

 

竹内栖鳳の歴史

 

1864年、京都の料理屋に生まれ、恒吉と名付けられました。実家の店に訪れる客の中には、土地柄もあってか画家もおり、恒吉は幼い頃から絵に親しみを持っていたと言われています。そして10代前半の頃には四条派の画家から絵の指導を受け始め、17歳の頃には幸野楳嶺の塾に移行。ここでは恒吉にとってはじめての号である“棲鳳”の名を授かり、翌年には同塾の工芸長になるなど早速その才能を発揮しました。またこの塾には同時期に棲鳳を含めた優秀な門弟たちが集まっており、都路華香や菊池芳文、そして谷口香嶠をはじめとした彼ら四人は「楳嶺門下の四天王」と呼ばれ名を馳せていたと言われています。その後も腕を磨くため京都府の画学校に入学し、在学中も幸野楳嶺の知遇を受けたほか、アメリカ人美術史家のアーネスト・フェノロサから講義を受けるなど熱心に学びました。そして1887年の卒業後、日本画家として独立。画学校の教壇に立ったほか、百貨店の意匠部に勤務し生活していきます。自身の作品制作も行い、内国勧業博覧会での褒状や日本青年絵画共進会で1等をとるなど高い評価も受けました。しかしその反面、複数の流派を学んだことからか画風の入り混じった作品も見られ、批判の声もあったと言われています。

 

やがて、晩年に助手も務めていた幸野楳嶺が亡くなると、徐々に日本画壇の第一線の顔ぶれも変化し、竹内棲鳳もそのうちの一人として各展覧会の審査員などを務めるようになります。並行して展覧会への作品出品も行っていましたが、その画風の変化のきっかけとなったのが1900年の渡欧経験でした。国からの援助を受け、パリ万博の視察が主な目的とされていた旅でしたが、この間にヨーロッパの各地を周り、現地で目にした風景や珍しい動物などを描いています。帰国後はそれらの体験をまとめ講演会なども行ったほか、渡欧中に見たライオンを描いた作品を展覧会で発表。当時の日本ではまだ目新しかったライオンを毛の質感まで再現した同作品は、多くの意味で注目を集め、1等の金牌を獲得しました。また同時に、号を「棲鳳」から「栖鳳」の文字に変え、しばらくの間は国外の風景や生き物を主題とした作品を多く描きます。そして、以降も特に動物を描くことを得意とするようになり、前述のライオンを始め、兎や猿、鹿などを高い写実性と共に作品にのこしました。

 

こうして1913年に帝室技芸員に認められた竹内栖鳳は、文展の審査員を務めながら自身も制作活動を続け、また50代半ば頃には2度にわたって中国に訪問。こちらは個人的な旅行であったと言われていますが、その影響は作品にも多くみられます。すでに日本の画壇でも大きな役割を担っており、国内外で活躍するようになっていった竹内栖鳳は、以降フランスから2度、勲章を受章したほか、国内でも展覧会出品はもちろん皇室に携わる仕事もこなしました。晩年には第一回の文化勲章受章者となり、1942年、78歳で息を引き取っています。

 

 

 

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