和骨董大辞典

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菅井汲(すがいくみ)

 

大正時代半ばに生まれ、平成初期にかけて活躍した画家です。

長期間フランスに滞在し、国外で芸術家として名を広めた日本人の内の1人です。

 

 

菅井汲の歴史

 

1919年に兵庫県で生まれた菅井汲は、幼少期から心臓の持病で体が弱く、進学の時期が同年代よりも遅れていました。その影響から、14歳になると友人の提案で大阪の美術学校に進学しますが、その後も体調が優れずまもなく退学。その後18歳からは阪急電鉄に入社して、商業デザインなどを手掛けていきます。以降約8年の間、同社の宣伝課の仕事に従事しました。

 

日本画家の中村貞似や抽象画家の吉原治良に学び、吉原治良には当時菅井自身が独学で描いた油彩画の批評なども依頼しています。二科展にも出品を行いますが大きな成果は得られず、1952年、より画力を磨くためフランスへ渡りました。現地では、日本画を学んでいたことが功を奏し、作品のエキゾチックさが評価され、35歳の時にはパリの画廊と契約するまでとなっています。

また、この頃からリトグラフの制作も始め、40歳前後には単純化された象形文字のような表現を多く描き、徐々に明るい色彩も交えた幾何学的な表現も取り入れていきました。これらの抽象画作品は1957年の東京国際版画ビエンナーレなど日本の展覧会にも出品して日本で改めて評価を受けたほか、アメリカのカーネギー国際美術展やスロヴェニアのリュブリアナ国際版画展にも出品。さらに41歳の時には東京国際版画ビエンナーレにおいて東京国立近代美術館賞を受賞するなど、国内外でその名を広めていきます。

 

50代の頃からは東京国立近代美術館の壁画の取り付けのために日本に帰国し、そのまま日本で制作活動を行っていきました。ここでは、それまでよりもより抽象的な、線と円が組み合わさったような表現が多く見られ、さらに、標識を連想させる無機質な形状をモチーフにした“フェスティヴァル”シリーズもこの頃に生み出しています。1983年には国内では初めての開催となった個展を成功させ、以降も平成にかけて、個展の開催や作品集の出版を行い、1996年、77歳で息を引き取りました。

 

 

 

リトグラフ

 

版画の制作方法のひとつで、菅井汲が多く用いた表現方法のひとつです。日本でなじみのある木版画とは異なり、石板や金属板を使用して紙に模様を転写していくもので、板には模様を掘ったりすることはせず、直接描き込み、油分と水分の性質を利用して印刷していきます。18世紀末にドイツで開発されたものだと言われており、アルフォンス・ミュシャやピカソ、日本では東山魁夷などの芸術家がこの方法を用いた作品を制作しました。

 

 

 

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