赤松麟作(あかまつりんさく)
明治初期から昭和中期にかけて活躍した洋画家です。人物を描くのを得意としたほか、教育者としても知られ、関西女子美術学校や大阪市立美術館付属美術研究所などで校長職や教授職を務めました。
赤松麟作の歴史
1878年に岡山県に生まれました。5歳の時に大阪へ引っ越し、小学校卒業後は父の営む看板屋を手伝っていましたが、ここで大阪の洋画家・山内愚僊(やまうちぐせん)と知り合いになっています。赤松麟作の父の看板屋はペンキで絵を描いたりする作業をしており、当時大阪朝日新聞にて挿絵を描いていた山内愚僊はこのペンキを使って巧みな絵を描いて見せたといいます。これをきっかけに絵に強い興味を持った赤松麟作は、15歳の時に山内愚僊の内弟子となりました。
赤松麟作は山内愚僊の友人から漢字を習うなどし、やがて19才になると東京美術学校の西洋画科に入学を果たします。在学中は入学年度から白馬会の作品展に作品を出品するなど積極的に活動し、さらに4年間の修業課程を2年半で終えて卒業するなど、非常に優秀な成績を収めました。
その後は三重県や和歌山県で美術講師を務めながら制作活動も行い、23才の時に白馬会展に出品した『夜汽車』が白馬会賞を受賞しています。この功績もあってか、1904年には山内愚僊と同じく大阪朝日新聞に挿絵画家として雇われ、正社員となりました。
写真印刷の技術がそれほど発展していなかった当時、新聞記事の挿絵は売上にも大きく影響のあるものであり、赤松麟作が手掛けた挿絵の中では『白骨の涙』などが大きな評判となったと言われています。しかし、しばらくしてから写真技術が発展したことによって挿絵画家たちは風刺画を描くことが求められ、これを嫌った赤松麟作は退社し、1907年に自ら開いた赤松洋画研究所で作品の制作に専念しました。
やがて50代の頃には大阪市立工芸学校図案科や関西女子美術学校洋画部、大阪市立美術館などの各所で教壇に立ち、後進の教育に尽力しています。
山内愚僊(やまうちぐせん)
明治時代初期から大正時代にかけて活躍した洋画家です。1866年に東京で生まれ、20代半ばから大阪朝日新聞社にて挿絵画家として活躍しました。
また、自身はフランスに訪れた経験もあり、当時の大阪の洋画会の重鎮としてもその名が知られていました。前述した赤松麟作のほか、光風会の創設にも携わった山本森之助などにも絵を教えたと言われています。