和骨董大辞典

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進藤章(しんどうあきら)

 

明治時代後半に生まれ、昭和末期にかけて活躍した画家です。

 

 

 

進藤章の歴史

 

1900年に山梨県で生まれた進藤章はのちに山梨師範大学へ進学し、卒業後は山梨県内の小学校に教師として務めました。一方で、当時注目を集めていた白樺運動の影響で、文化活動に興味を持ち、中でも最も関心のあった絵画を学ぶため、美術団体の草土社で洋画家の木村荘八に師事しています。

その後結婚してしばらくは教師としての生活を続けますが、27歳の時に夫婦で東京に移ると、教師を辞め、古典美術協会で本格的に絵について学び始めました。ここでは4年の時間をかけて古典技法を研究しながら、いくつかの展覧会で作品の出品を行っています。日本画的な主題や要素を油彩で表現していく進藤章の制作活動は徐々に注目を集め、33歳の時には日動画廊で個展を開くまでの実力をつけていました。以降も毎年都内各所の画廊で個展を開催し、作品の制作に熱中していきます。

 

40代の頃になると東京にいた画家仲間たちと美術団体・菁々会を創立し、同会の展覧会を晩年まで続けていきます。その間には太平洋戦争が開戦していますが、その翌日に行われた展覧会も予定通り行ったことが少なからず注目を集め、混乱期に一時は中断されるものの場所を変えながら開催は続きました。やがて終戦すると山梨に戻り、県内の展覧会に作品を出品するようになります。

また進藤章は故郷である小淵沢村の村長にも選出され、その後町村会の会長や教育委員会に籍を置いたほか、峡北美術協会を結成し、以降約30年近く同会で後進の指導に当たりました。

 

他にも個展の開催や、県立図書館の協議会副会長、峡北美術協会会長などの要職を務め、晩年まで地元の美術・文化の興隆に尽力しています。そして1976年、76歳で息を引き取りました。

 

 

 

峡北美術協会

 

1948年、進藤章が48歳になる年に設立された美術団体です。2019年現在で73回の開催の歴史があります。今では地域の合併などでその名がなくなってしまいましたが、当時は進藤章が会長を務めていた北巨摩郡に縁のある芸術家たちが中心となっています。

 

 

 

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