和骨董大辞典

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野口弥太郎(のぐちやたろう)

 

 

明治時代後半に生まれ、昭和後半にかけて活躍した洋画家です。フランスへの留学を経験し、日本的なフォーヴィスム作品を多く生み出しました。

 

 

 

野口弥太郎の歴史

 

 

東京都の銀行家の家に生まれた野口弥太郎は、幼少期に父の仕事の都合により朝鮮に移住し、12歳になるまで現地の小学校に通っていました。日本に帰国後は長崎から神戸の小学校を転々とし、15歳の時に中学校に進学しています。中学時代は成績優秀で校内の油絵グループにも所属し、人気も高かったようですが、18歳の時に怪我をして休学することとなっています。しかしこの間に野口弥太郎は油絵を多く描き、21歳で同校を卒業したのちも、絵の道を志すようになりました。

 

卒業と同時に両親から外国製の本格的な油絵セットを贈られた野口は、その後軽井沢を経て、東京に移住しています。ここでは川端画塾で絵を学んだほか、洋画家の村山槐多や関根正二の展覧会でその作品に大きく感動し、翌年には代々木に自身のアトリエを建てました。そして同年、二科展に初出品した作品『女』で初入選を果たしています。その後も同展に出品を続け、1924年には出品作の内3点がすべて入選作品に。また新人グループの円鳥会では会員外からの出品となりましたが、主催者である萬鉄五郎に評価され、注目を集めました。

 

 

翌年には結婚し、さらに1926年には1930年会の会員となり、同会では後進の指導にもあたり、以降出品を続けていきます。そして30歳の時には大阪での初の個展の開催を成功させ、フランスへ渡りました。

現地ではグランド・ショミエール芸術学校に通ったほか、郊外への写生旅行や隣室にいた画家の木下孝則と共に南仏旅行へ出向くなど有意義に過ごし、また制作した作品をサロン・ドートンヌやアンデパンダン展に出品しています。このようにしてパリの最先端の美術に触れた野口は、画材や絵具の塗り方、種類などにも試行錯誤を重ね制作活動に没頭していきます。やがて32歳の時にサロン・ドートンヌに出品した作品『港のカフェ』は、フランス政府に購入され、市庁の美術館に所蔵されるという大きな功績を残しました。

 

30代半ばの頃に帰国すると、独立美術協会の会員となり、同展に渡欧中の作品を陳列したほか、その後も出品を続けていきます。また40代の頃には個展を数回にわたり開催し、1952年には日本大学芸術学部の教授として迎えられました。以降も熱心な制作活動を続け、毎年多くの展覧会に出品を重ねたほか、61歳の時には再びフランスへ渡り現地の画廊で個展の開催を成功させるなど、国内外でその才能を認められていきます。2年後には日本に戻りましたが野口弥太郎は71歳で退職した後も絵筆を取り続け、紺綬褒章や勲三等瑞宝章を受章し、77歳で息を引き取りました。

 

 

 

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