明治時代半ばから昭和後期にかけて活躍した画家です。風景画を得意としており、中でも雪を描いた作品は見事であったため『雪の画家』とも呼ばれていました。
金山平三の歴史
兵庫県で生まれた金山平三は、22歳になると上京して東京美術学校に入学しています。同校では西洋画科にて、黒田清輝をはじめとした当時の画壇を牽引する教師陣の下で4年間学び、首席で卒業しました。その後、一時は同学科の研究科へと進学しますが1912年の初めにはパリへと渡り、31歳のころまでヨーロッパを周遊しながら写生を繰り返したといわれています。帰国後は1916年の文展に初出品をしますが、これが初入選、そして特選第2席となった上に文部省の買い上げとなり、33歳にして早くもその名を広める事となりました。
翌年には文展で特選第1席となったほか、金山平三が36歳の時には帝展の開催が始まります。同時期に30代という若さで帝展の審査員にも任命され、以降は帝展にて、出品を続けました。この中で1928年に出品した作品『菊』は帝室に買い上げられたのちに明仁上皇に献上されています。また、これらの功績により1944年には帝室技芸員に任命されました。
やがて、60代前半の頃には空襲によって神戸の実家が被災し、最上川沿いに東京から疎開しています。そして2年後にはその対岸となる大石田町に腰を据えました。
この間には洋画家の刑部人や歌人の斎藤茂吉と親交を深め、以降も積極的に制作活動を行い、日展への出品のほか個展の開催にも成功しています。晩年には日本藝術院会員や日展顧問などを歴任し、1964年、81歳の時に息を引き取りました。
ちなみに、数多く残された金山平三の作品群は最晩年に金山の支援者となった川崎重工業株式会社に保管されていましたが、現在は兵庫県立美術館に所蔵されています。
帝室技芸員(ていしつぎげいいん)
1890年から1947年にかけて設置されていた、芸術家たちに対する表彰制度です。宮内省によるもので、当時の優秀な画家、彫刻家、漆芸、陶工など様々な工芸家が任命されました。
元々は龍池会(りゅうちかい)という美術団体が、宮内省の下で「日本美術協会」を発足させ、帝室技芸員の前身となる『宮内省工芸員』を認定したことから始まっています。やがて選定委員たちも定められ、正式に帝室技芸員の制度が始まったのが1890年でした。帝室技芸員の任期は終身とされ、年に100円の年金が支払われています。
初代の認定分野は、画家、彫刻、漆工、織物で、田崎草雲、高村光雲、柴田是真、伊達弥助らが認定されました。また、選定自体は1944年までの13回で、全部で79名の芸術家たちが任命されています。