明治半ばから昭和前半にかけて洋画家、そして歌人として活躍しました。日本においてフォービスム的作品を制作する代表的な画家の1人として知られています。
長谷川利行の歴史
京都の警察官の家に三男として生まれた長谷川は、その後和歌山の中学にて文学に興味を持ち同人誌を発行するなどして学生生活を送っています。同校は18歳の時に中退してしまいましたが、この頃から詩や歌の制作も始め、28歳の時には歌集の発行も遂げるほどで、1921年に東京に移ってからも小説の執筆を続けていました。また、この間には絵画を独学で学び展覧会への出品を重ね、29歳の時には新光洋画会展に出品した作品が初入選しています。
やがて関東大震災後は一時期京都で活動し、30代半ばに再度上京すると、詩人の高橋新吉や、前田寛治、靉光、麻生三郎、熊谷守一など多くの洋画家たちと親交を深めました。絵画作品の制作も積極的に行い、二科展で樗牛賞を、そして一九三〇年協会展では奨励賞を獲得しその名を広めていきます。しかし長谷川は浅草で一日中制作活動をするか、その作品を金に換えて酒を飲む生活を続けていたため生活は貧しく、友人のもとに絵を押し売りにいくこともあるなど理解者は多くはありませんでした。40代の頃には簡易宿泊所などを渡り歩き、自身で芸術家団体「超々会」(シュルシュル会)を創設するなどしますが1年ほどで衰退。46歳の時には自身にとっての最後の二科展出品を行っています。
そのような中でも長谷川の唯一の理解者であった画廊の経営者・天城俊彦は長谷川の個展を開催するなどしていましたが、長谷川自身が酒の飲みすぎが原因で患っていた胃潰瘍によって体を弱め、50歳近くなると三河島で行き倒れの状態となりました。すぐに養育院に入れられるも治療を拒んだために間もなくして亡くなり、この時、養育院の決まりによって作品を含めた長谷川の所持品全てが燃やされています。翌年、天城らによって遺骨は引き取られ、その後追悼短歌集の発売や、その反省を描いた舞台が上演されるなど、没後に大きく評価されることとなりました。
一九三〇年協会
1926年に結成された美術団体です。パリの自由な風潮の下で学び、それに刺激を受けた日本人洋画家たちが創設しました。彼らがバルビゾン派(別名1830年派)の代表画家として知られるジャン・フランソワ・ミレーやジャン=バティスト・カミーユ・コローなどを尊敬したためにこの名称になったと言われています。創立メンバーは木下孝則や小島善太郎、前田寛治などの5名で、全5回にわたり展覧会を開催。特定の風潮の決まりはなかったと言われていますが、全体としてフォービスム的な作品を描く画家が多く、1930年に締めくくられた展覧会後は、「独立美術協会」にその運動が受け継がれました。