和骨董大辞典

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長谷川等伯(はせがわとうはく)

室町時代に生まれ、江戸時代初頭にかけて活躍しました。

 

時期によっては、“等伯”のほか“信春”の号も称しています。当時絵師として大きな一門に所属していない所から、現代でも名が知られている有名な一派、狩野派の絵師たちと張り合うまでの実力を認められていった人物です。

代表作の屏風画『松林図屏風』は、国宝として東京国立博物館に所蔵され、年始の限定された期間にだけ公開されるなど、現代の人々にもその作品は愛されています。

 

 

長谷川等伯の歴史

 

 

室町時代、1539年に石川県で、戦国大名につかえる家臣の家に生まれた長谷川等伯は、当時は又四郎、そして帯刀と名乗っていました。帯刀は幼少期に生家から離れ、染物屋の家に養子に出されますが、ここの主人であった長谷川宗清が、帯刀が絵の道に進むこととなったきっかけとも言われています。

養父である長谷川宗清は、水墨画家の雪舟を師に持っていた等春という人物から絵の指導を受けており、日蓮宗を厚く信仰していました。また帯刀が生まれ育った七尾の地は当時、公家や貴族たちが多く集まり、「小京都」と称されるほどに文化的に栄えていたと言われています。こうした中で、帯刀は養父から絵を習い始め、当初は特に日蓮宗に関係する肖像画や仏画を制作。10代後半から描いたと言われていますが、早い時期からその才能は周囲に注目され、この頃から名前を信春と称するようになりました。

 

絵師としての活動を順調に進めていった信春でしたが、30代前半、時代が室町から安土桃山に替わろうとする時期には国も混乱し、仕事も減っていってしまいます。また信春に絵を教えた養父家族を失ったこともあり、妻子を連れて新たな拠点として京都に移住。一般的な寿命が40歳ほどであった当時、30代での移住はかなり珍しいものでしたが、信春は京都に到着すると拠点を日蓮宗の本法寺におき、さっそく制作活動を始めます。この時に手助けをしたといわれる本法寺の住職が翌年亡くなると、信春は住職の肖像画を描いていますが、その出来栄えも非常に高く、以降はより腕を磨いていきました。

当時京都では狩野永徳率いる絵師集団・狩野派が御用絵師として最も広く名が知られており、信春も一時はその門で学んだといわれています。しかし短期間で辞めてしまうと、信春は京都と、大阪の堺を行き来しながらその周辺の商人たちとの交流を深めていきました。この中には日本に茶道を知らしめた茶人、そして商人でもある千利休がおり、彼らからは中国の水墨画や障壁画などをはじめとした国外の作品を見せてもらい、その画法を学ぶ機会を得ていきます。さらに、信春の才能を見込んだ千利休が、当時寄進を予定していた、京都の大徳寺金毛閣(大徳寺上層部)の天井画と柱の装飾を信春に一任。現在は重要文化財にもなっている建造物ですが、当時も名の知れていた寺院の装飾を務めたことをきっかけに、絵師としての信春の名は、京都でも知られるようになっていきました。

これで意気込みを新たにすると、同じく大徳寺の建造物のひとつ、三玄院の襖絵の制作を開始。元々この襖絵の制作をしたいと願っていたのは信春で、住職には断られていましたが、ある日無断で乗り込み襖に絵を描き始め、周囲を驚かせたという話は現在も語り継がれています。当初は信春の勝手な行動に住職も怒ったといわれていますが、完成品を見るとその出来栄えに満足し、以降信春は京都画壇の代表的な絵師の一人として数えられるようになりました。また、自身を長谷川等伯と称し始めたのもこの頃だといわれています。

 

 

京都での長谷川等伯

 

石川から家族と共に単身で移住し、努力を重ね、有名絵師として京都の各地で大仕事の依頼を受けるようになった等伯でしたが、これを快く思わなかったのが、当時御用絵師であった狩野派の面々でした。

御用絵師と有名絵師としての仕事上の諍いはいくつかあったようですが、特に有名なのは1590年におきた、後陽成天皇の奥方用の住居の、障壁画制作についての出来事です。この造営を指示していたのは豊臣秀吉で、始めこの制作を願い出たのは長谷川等伯の方でした。京都御所での仕事依頼は、強力な後ろ盾のない等伯にとって大きな功績になり得る大変喜ばしいものでしたが、一方で自身の特権であるともいえる、宮中に納める作品の制作依頼を一絵師に取られた狩野派にとっては、納得のいくものではありません。そこで、もともと御用絵師として有力者とも繋がりのあった狩野永徳は、自身の伝手で必死に根回しし、この依頼の発注先から長谷川等伯の名前を除くことに成功します。

理不尽さも感じられる出来事ではありますが、長谷川等伯が、京都で最も勢力のあった絵師の一派を焦らせるほどの実力があった証明ともいえ、実際にこの翌年、等伯はその実力から再度機会が与えられ、現在は智積院の名で知られる寺院の障壁画を描き、豊臣秀吉から褒美を授かりました。この時仕上げた作品は現在国宝とされているほか、傍には息子であり、等伯に劣らぬ才能を見せていた久蔵の作品も並んでおり、50代にして狩野派と肩を並べる絵師として大成したことを示す作品となっています。

 

 

絵師として大きな成功を収めた等伯でしたが、その反面で、大きなよりどころであった千利休が智積院の障壁画完成と同年に、切腹によって逝去。そしてその2年後には後継ぎとなるはずだった息子の久蔵、数年後には豊臣秀吉も亡くなっています。短期間の間に息子と、自身を有名絵師として成長させた縁深い人々を失い、失意の中にあった等伯が描いた作品『松林図屏風』は、もの悲しさの感じられる水墨画で、しかし傑作として後世に伝わりました。また、この近しい人々の死を経験したのち等伯は、改めて自分の出自を見直したのか、“雪舟の5代目”を自負。雪舟の弟子・等春から、等伯の養祖父、養父、そして等伯へと受け継がれた技術に、京都で一世を風靡した狩野派の技術を取り入れた独自の画風はその後も多くの要人たちに好まれ、宗派関係なく、数多くの寺院から依頼が寄せられたといわれています。

これらの功績が認められ、1604年には、もともと上位の僧に与えられていた位である法橋を。そして翌年、67歳の時にはそのさらに上の位である法眼の位を授けられました。この間に等伯は、御礼として宮中へ屏風一双を献上していますが、通常は四双ほどの献上が好ましいとされる中でのこの待遇は、宮中から絵師の長谷川等伯への信頼や評価の高さが伺えます。

弟子もとり長谷川一門を作り上げ、京都で確固たる地位を得た等伯はやがて、一門の未来のため、豊臣秀吉にかわる強力な後ろ盾を探すようになりました。そして目を向けたのが、秀吉に代わって天下人となった徳川家のある江戸です。古希も迎えた体でしたが、1910年には徳川家康から招かれ、等伯は次男と共に江戸へ向かいました。しかし、この道中で体調を崩し、江戸に来て2日目に息を引き取っています。

 

その後、長谷川派は等伯に同行していた次男が継ぎますが、次男も等伯の亡くなった翌年に急逝。一方で狩野派が永徳の死後、一時は潜めていた力を再び持ち始めたこともあり、長谷川一門の力は弱まっていきます。しかし両派共に刺激しあい、等伯の息子や弟子たちも代表作を遺したほか、のちに伊達政宗らに要職を任せられるなど活躍を続けていきました。

 

 

 

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