明治時代後半に生まれ、大正時代中頃にかけて活躍した洋画家です。20歳の若さでこの世を去りましたが、代表作は重要文化財の指定を受けるなど、素晴らしい作品を遺しました。
関根正二の歴史
福島県の屋根葺きの職人であった父のもとに生まれた関根正二は、8歳の時に、先に上京した家族を追って東京に移りました。深川で過ごした関根正二の幼馴染となったのは、やがて日本画家となる伊藤深水で、少年期だけでなく中学校に進学してからも伊藤深水との交友関係は続いていきます。中学校は夜間部に通っていましたが、形式的な勉強を続けることに抵抗を感じていたと同時に、先生に「人から離れ、空想に耽ってみよ」という意味合いの言葉を掛けられたことを機に、関根正二は中学を退学しました。
その後は当時日本画家を志していた伊藤深水の影響もあって、関根正二も徐々に画家を目指すようになります。15歳の時に、伊藤に勧められ入社した東京印刷株式会社には芸術に興味関心の深い人々が多く、関根正二は国内外の画集や雑誌が置かれた環境で過ごすこととなっています。そしてここで知ったオスカー・ワイルドやニーチェのような退廃的な思想の芸術観に強く惹きつけられ、翌年、会社を辞め本格的に画業に力を入れ始めました。
関根正二は退職後、しばらく本郷研究所で絵を学んだと言われています。そしてまもなく、友人と長野方面に数か月間の旅に出かけ、貧しい旅行の中で様々な苦労や美しい景色を体感しました。またこの最中には画家の河野通勢にも出会っており、河野通勢の描いたデッサンと油彩画、そして西洋画家たちによる作品の画集を食い入るように見、ほぼ独学で学んだ自身の制作活動にもこの経験を活かしていきます。そして同年に描き上げた作品『死を思う日』で、二科展で初入選を飾りました。
その後関根正二は太平洋画会研究所に入り、改めて絵画の勉強を始めています。ここには約1年間通い、その後は自身の制作活動に集中しながら、2人の女性に思いを寄せました。作品は少しずつ色彩が鮮やかになっていきましたが、1918年には失恋と体調不良が重なり、千葉県の姉のもとに身を寄せています。
しかし制作活動は続け、この年に関根正二は二科展への出品作『信仰の悲しみ』で樗牛賞を受賞。同作は2003年に日本の重要文化財として指定されました。
この頃から体も衰弱していき、翌年、1919年の6月に20歳で息を引き取っています。