和骨董大辞典

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難波田史男(なんばたふみお)

 

昭和前期、第二次世界大戦中に生まれ、昭和後期にあたる1970年代にかけて、洋画家として活躍しました。

 

 

難波田史男の歴史

 

難波田史男は1941年に東京で、洋画家の難波田龍起の子として生まれました。第二次世界大戦中であったため、生後間もなく一時的に山口へ疎開していますが、4歳の冬には東京に戻っています。この頃から絵に興味を持っていた難波田文男は、すでにクレヨンで戦禍のイメージを描くなどしており、小学校に入学後は油彩画の制作に熱中していました。

中学に進学すると学業に励み、卒業後は早稲田高等学院に進学。在学中は読書を多くし、選択授業では絵画芸術よりも音楽を選び学ぶなど、それまでとは異なる刺激を受けるようになりましたが、中学の頃とは対照的に学業には消極的だったと言われています。そのため大学への進学をあきらめ、洋画家であった父の難波田龍起のように美術の道に進むことを考え始めました。

 

その後1960年には文化学院の美術科に進学して洋画家の山村蘭村や村井正誠に学び、石膏以外にも東京の街や建物の素描を行いました。また、抽象的な表現にも関心を示し、ノートに線描画を描いたり、それに詩や作家の言葉を添えるなどしています。在学中には、このほか板や段ボール紙などキャンバス以外の物質に油彩画を描く挑戦や、クラシック音楽を聴いて得たインスピレーションを絵巻物風の形に表現した作品を3本制作するなどしました。1962年に同校を退学してからはしばらく自身の制作活動に没頭しますが、23歳の時、ある画廊で個展の開催を希望するも力量不足とされ、同時にイラストの制作を進められますが馴染めずに断念。そして改めて自身の芸術論の確立を目指し、翌年には早稲田大学の美術科に入学しています。

 

早稲田大学では、1年目は学業の傍ら学園祭用の作品を制作するなど充実した学生生活を送りましたが、2年目からはしばらく大学紛争に巻き込まれ、自身の立場に苦しむ日々が続きました。その激しさは難波田史男の卒業まで続きましたが、この間には水彩画、油彩画、素描など多くの作品を制作し、学生でありながら3回にも渡って念願の個展の開催を成功させています。個展の批評がいくつかの新聞に掲載されたこともあって、これをきっかけに難波田史男の名前は広まっていき、1970年の卒業後も、各地で多くの個展を開催。また新鋭選抜展などの展覧会にも作品を出品しました。1973年には父と共同の親個展を開催するなどして活躍していましたが、翌年、旅行で訪れていた九州からの帰路で船から転落し、32歳の若さでこの世を去っています。

 

 

 

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