明治末期に生まれ、平成初期にかけて活躍した洋画家です。主に抽象画をよく描き、その活躍から66歳で紺綬褒章を受章しました。
難波田龍起の歴史
難波田龍起は1905年に北海道で生まれ、父の都合で翌年には家族で東京に引っ越しています。そして18歳になると早稲田第一高等学院に進学しましたが同年に関東大震災に被災。しかしこの直後、夜警をしている際に近くに住んでいた高村光太郎に出会ったことがきっかけとなり、芸術に興味を持ち始めました。詩人や彫刻家、また画家として活躍していた高村光太郎の影響から、難波田龍起も当初は自身で制作した詩を携えて高村のアトリエに通っていましたが、徐々に絵画にも関心を抱き、20代前半に早稲田大学を1年ほどで退学すると、太平洋画会研究所や本郷絵画研究所にて、絵画を学んでいます。
その後、高村の紹介で洋画家の川島理一郎に師事し始め、また若い画家たちが集まり互いに作品を批評する金曜会にも顔を出すなどして腕を磨き、1929年には国画会に出品した『木立』が初入選に至りました。こうして日本画壇で活躍し始めた難波田龍起は、この初入選後、洋画家の鶴岡政男や、生涯の友となる松本竣介らと交流を深め、以降は積極的に作品の発表と出品を行っていきます。1935年には金曜会の同志たちと共にフォルム展を結成し、また1936年からはアヴァンギャルド芸術クラブや自由美術家協会の設立に協力。まもなく自由美術家協会の会員となると、54歳で退会するまで毎年作品の出品を行いました。
第二次世界大戦後、それまでよりもより幾何学的かつ抽象的な作品を描くようになった難波田は、年数を経て自身の画風を確立し、自由美術家協会や日本国際美術展など展覧会への出品も続けています。その傍らで50代の頃からは文化服装学院のデザイン科や北海道の短期大学の美術科などで教壇に立ち、さらには石版画にも挑戦するなど多方面で活動しました。また昭和末期の頃からは個展を活動の中心にしており、北海道や東京などで回顧展、また新作品の発表の場を設けています。
これらの活躍が認められ、82歳の時に毎日芸術賞、そして1996年、91歳で文化功労者の表彰を受け、翌年息を引き取りました。