和骨董大辞典

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香取秀真(かとりほつま)

 

明治初期に生まれ、昭和半ばにかけて活躍した芸術家です。

主に鋳金の工芸家としての活躍が大きいですが、歌人の正岡子規の門下の歌人や、金工の歴史における研究者としての一面ももつなど、他分野で才能を発揮しました。

 

 

香取秀真の歴史

 

1874年、千葉県に生まれた香取秀真は、幼少期に同県佐倉市の麻賀神社の養子となり、宮司の子として育ちました。佐倉市内には寺院や遺跡などが多く残っていた影響で、香取秀真は小さい頃から歴史的なものや古代について強い興味を持っていたと言われています。15歳の時には地元の学校に入りますが、在学中は和歌の創作に打ち込み、万葉集の書き写しなどで学びながら、古代に対する興味がより強まり、仏像制作などにも関心を寄せました。

この頃から上京して仏師となる道へのあこがれが生じていた香取秀真は、宮司の子という寺の跡継ぎの立場に思い悩みますが、養父が香取秀真の才能を信じ、先祖から受け継いでいた土地を資金に、上京を許可されています。その甲斐あって18歳で東京に出ると、翌年、東京美術学校に首席の成績で進学。在学中は鋳金科で学び、22歳で卒業しました。

 

東京美術学校卒業後、同郷の女性と結婚すると、1898年には日本美術協会展に出品した作品が1等、またその2年後にはパリ万博で銀賞碑受章者に選ばれるなど早くも才能を表しますが、普段の作品の売れ行きは芳しくなかったといいます。そのため金属を扱う力作業を行う都合もあり、何人かとった弟子たちと共に極貧生活を送ることとなり、妻は故郷に戻り、一時は危機的状況にもありました。しかし友人らの励ましを受け、29歳となる頃に再婚し、また母校である東京美術学校では鋳金や彫金の歴史の指導を担当。大正期前後からは東京勧業博覧会の審査員などを務めたほか、50代となる頃には帝展の審査員や会員となり、鋳金にとどまらず金属工芸品全般が美術品としてより広く認知されることを目的に活動しています。また東京美術学校では59歳の時に教授となり、数多くの後進を指導していきました。

 

20代前半で学校を卒業して以降、香取秀真は晩年までほぼ毎年展覧会への出品を行いながら、並行して前述のような要職の歴任、また研究者としての研究活動と学術書の執筆を行っていきます。これらの功績が認められ、1934年、60歳の時には帝室技芸員に。また1953年には文化勲章・そして文化功労者に認められました。翌年にはアララギ派の歌人としても本格的な活動をはじめ、晩年は宮中で歌を披露する場も設けられています。そしてそれと同年の1954年、81歳で息を引き取りました。

 

 

 

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