和骨董大辞典

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高橋松亭(たかはししょうてい)

 

明治初頭に生まれ、昭和前期にかけて活躍しました。

明治生まれではありますが、江戸時代の雰囲気の残る風景を切り取ったシーンや、夕暮れから夜にかけての風景と人々を画面に入れた、版画作品が有名です。

 

 

 

高橋松亭の歴史

 

高橋松亭は1871年に、東京で生まれました。勝太郎と名づけられ、幼少期から絵に興味を持つと、10歳になる前には父の兄であった日本画家・松本楓湖より日本画の手ほどきを受けていきます。その後宮内省にて働くことが決まりますが、この時まだ10代半ば頃だったといわれており、若くして周囲に才能が認められ、在任中は国に使える人々の服装の図案制作や勲章の模写などの業務に携わりました。

そして20歳になると、日本美術院を作り上げたことでも知られる岡倉天心を中心として、寺崎広業や富岡永洗などの日本人画家らと日本青年絵画協会を発足しています。これは後進への教育を目的に設立された美術団体で、展覧会の開催などを行っていました。また画力の向上を目指して岡倉天心によって組織された互評会、上野に集う文人たちの集会を指した二十日会などにも参加。このうち二十日会は実際の活動よりもお酒の入った宴会的要素も強かったといわれ、ここで勝太郎は当時の文人たちと親交を深めていきます。

 

一方で当時の勝太郎は新聞、小説、そのほか小学校用の教科書などの挿絵を描く仕事に従事しており、並行して自身の作品制作も行っていました。東京勧業博覧会をはじめとした展覧会で発表した作品は、一等褒状を受けるなど上位に入賞。また挿絵描きの仕事も、10年以上の長きに渡って務めたようですが、『日本歴史画報』の挿絵など木版画や石版画作品の出版を頻繁に行っています。こうして版画作品の制作経験を経た勝太郎は、やがて30代の頃から、錦絵を扱う老舗商店で版画に携わっていきます。この時行っていたのは浮世絵の複製であったため、絵師としてではなく色ざしなどの工程を担当していたといわれていますが、これがきっかけとなって、新版画の火付け役と知られる渡辺庄三郎との親交が始まりました。

勝太郎の働く店に訪れた渡辺の話から、輸出用版画を出版することとなった際、そのうちの数点を勝太郎が作画。これが反響を呼び新版画確立のきっかけとなったほか、勝太郎もこの時から松亭の号を使用し始めるなど、高橋松亭が版画家として名を広める要因ともなっています。やがて渡辺庄三郎が独立すると、高橋松亭に再び絵を依頼し、できあがった作品は新版画として発売が開始されました。以降も高橋松亭は、当時同じく新版画の版画家として売れ出していた伊藤深水や川瀬巴水に並び作品を発表していき、その間には佳恵の号もつかっています。

 

1923年におきた関東大震災では膨大な数の作品と、版木も焼失。そのためその後復元を行っていきますが、この最中50歳頃には号を弘明と改めました。版画家として当初は山水画を多く描いていましたが、昭和に入ると他に美人画や動物たちも描いた作品も手掛けるようになり、版元の金子孚水(ふすい)の店から作品を発売しています。

 

晩年は短冊の木版作品を出版したほか、風景画を写生した日本画を多く作成。そして1945年、76歳で息を引き取りました。

 

 

 

金子孚水(かねこふすい)

 

明治後期から昭和後期にかけて活躍した版元です。高橋松亭が自身を高橋弘明と称していたころには、金子孚水の浮世絵商から作品を出版しており、それまで頻繁に描いてきた風景画とは変わって美人画や、動きのある猫、犬などの姿を主題とした作品を手がけていました。

金子孚水は1897年に山形の煙草製造を営む家に生まれています。名前は清次といい、10代半ばのころに上京すると、しばらくは酒井好古堂という浮世絵商で奉公人として勤めていきます。この間に浮世絵の収集家として知られる小林文七と知り合い、その影響を受けると、大正時代後期には洋画家の小林未醒によって孚水の号を授けられました。この号は「浮世絵」の一文字「浮」を、「孚」とさんずいの「水」ふたつに分けた文字となっており、金子孚水自身、この頃から浮世絵研究家として活動していきます。

浮世絵美術館を国立の施設として設立することを提唱するなど、すでに浮世絵に並々ならぬ関心を持っていた金子孚水は、まもなく湯島に浮世絵商・孚水画房を開店。やがて上野店を本店として始業し、高橋弘明(松亭)をはじめとした絵師たちの新版画作品を販売するなど順調に営業をしていきました。一方で数十回にわたる浮世絵展覧会を各地で企画し始めたのもこの頃で、浮世絵商の経営と並行して、国内における浮世絵のさらなる普及にも尽力していきます。

 

しかし、30代後半のころに関わった贋作事件によって状況は一転します。この事件は、華族の旧家・春峯庵(しゅんぽうあん)と称する人物が所持していた写楽や歌麿など有名浮世絵師の肉筆作品が発見されたという一報から始まったもので、当時は新聞にも取り沙汰され入札会が行われるなど大変な騒動となりました。ところが実際にそれらの作品は、前々から方々で出回っていた、ある一家によって製作された贋作のひとつであり、事前にこの一家の存在に気付き、一度は止めた金子孚水も加担し共に仕組んだものであった、と明らかになります。さらに入札会前には、当時の日本の浮世絵研究の権威ともいわれていた大学教授が、贋作と気づかずに作品を高評価して話題性もあがっていたため、作品の売約金額は現在に換算して10憶円近いものになっていたといわれています。

結局、全体の売約が済む前に事件が発覚したことで、契約はほぼ解約となり、金子孚水も懲役の判決を受けました。また、この詐欺事件によって浮世絵商をはじめとした業界では肉筆浮世絵の取り扱いが非常に難しいものとなり、量産可能な版画作品と大して変わらない価値となった時期もあったと伝えられています。懲役を終えた金子孚水は、第二次世界大戦下であったこともあり版元としての活動再開は不可能で、以降はさらなる浮世絵の研究に励みました。

若いころから提唱していた国立浮世絵美術館の設立は叶いませんでしたが、晩年には非常に長い間研究していた葛飾北斎の美術館を開館すべく奔走。自身も水彩画を制作するなどしながら、美術館開館が1976年に実現すると、その2年後、81歳で息を引き取っています。

 

 

 

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