高橋由一(たかはしゆいち)
1828年、江戸時代に生まれ、日本で初めて本格的に油彩画を体得した「日本初の洋画家」とも称されています。
高橋由一の歴史
千葉県の佐野藩士の息子として生まれた高橋は、両親が離縁したため祖父母に育てられました。幼い頃から絵を好み、2歳で絵筆を持ち、10代になった頃には狩野派の画師に師事したと言います。途中、家業であった剣術師範となるための修行や、藩主の側仕えの仕事のために絵を学べない時期もありましたが、独学で研究に励み、20歳になると東京にある稲荷神社の天井絵を描くまでの力量をつけていました。
やがて剣術師範の後継者が決まると、高橋は本格的に絵画の研究を行うことを決心します。初めのうちは藩務もこなしながら日本画家の吉澤雪菴に学んでいましたが、30代半ばになると当時幕府の洋学研究教育機関であった、蕃書(ばんしょ)調所の画学局に勤めます。ここで初めて油彩画を目にした高橋は、数年後には同局を退職し、横浜に住んでいたイギリス人画家チャールズ・ワーグマンから、本格的に油彩を習いました。翌年にはパリ万博への出展も果たします。
その後明治時代に入っても、高橋は教壇に立ちながら「天絵楼」という画塾を設立し多くの弟子をとり、後進の教育にも励む一方、自身も38歳からイタリア人画家アントニオ・フォンタネージに師事するなど、西洋画の研究を辞めることはありませんでした。その作品は写実主義的でありながらも、そっくりそのまま題材を写すのでなく、本当にそこに存在するかのような独特の表現に優れ、中でも縦の画面に吊るされた『鮭』の絵は代表的です。
当時明治維新で時代が激変する中、高橋は油彩画を広めるべく、51歳の時に香川県の金毘羅宮で開かれた博覧会に出品し、作品を全て金毘羅宮に奉納して資金援助を得るなど精力的な活動を行いました。同年には明治天皇の肖像を描き、国内でも第一線で活躍し、その名を広めています。
その後も晩年まで制作活動を行い、66歳の時、息を引き取りました。
チャールズ・ワーグマン
1857年、チャールズ・ワーグマンは25歳の時にイギリスの週刊新聞の記者として来日しました。この週刊新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」はイラストを交えたニュースを世界で初めて報じた新聞で、のちに日本でも創刊された同様の雑誌で、チャールズ・ワーグマンは自作のイラストをまじえた記事を掲載しています。そのほか薩英戦争や下関戦争についても記事を担当しました。
30代前半の頃には五姓田義松や高橋由一などが弟子となり、日本に洋画を広めた先駆けの1人となっています。徳川慶喜への会見の経験もあり、晩年はロンドンで展覧会などを開催し、59歳の時に日本で亡くなりました。