和骨董大辞典

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高田博厚(たかたひろあつ)

 

明治時代後半に生まれ、昭和末期にかけて活躍した彫刻家です。

彫刻以外にも、翻訳家や思想家としての面も持ち合わせ、世界大戦中も海外に留まるなど長きにわたって国外でも活躍しました。

 

 

高田博厚の歴史

 

1900年に石川県に生まれた高田博厚は、3歳の時に父が弁護士を始めたことをきっかけに福井県に移住しました。同市内の小学校に進学し、在学中に父を亡くしたのちは、遺された書物を熱心に読み、中でもフランス人作家のロマン・ロランが書いたベートーヴェンをモデルとする長編小説に刺激を受けたと言われています。中学校入学後は美術や哲学、文学に強い興味を持ち、一方で英訳も得意としていました。

 

卒業後は本格的に絵画を学ぶために上京し、当時の日本画壇ですでに名高かった岸田劉生や高村光太郎、中川一政などの画家と知り合い、交流を深めていきます。翌年には東京外国語学校のイタリア語科に進学しますが、約2年の間に問題なく翻訳ができるほどとなり、同校は退学。この頃から彫刻家のロダンの作品に惹かれていき、以降は雑誌の『白樺』に洋書の翻訳を掲載するなどしながら、高村光太郎のもとで彫刻の腕を磨いていきました。

翻訳以外にも同人雑誌の出版などを行いながら、1927年には大調和美術展に彫刻作品を初出品し、翌年も同展に作品を出品しています。やがて31歳になるとフランスに渡り、幼少期に読みふけった長編小説の作者であるロマン・ロランの元を訪れ、同時期に来仏したマハトマ・ガンジーとロマン・ロランの会談に同席する機会を得ます。またパリではジャン・コクトーやポール・シニャック、ジョルジュ・ルオーなどの文化人たちとの親交を深め、のちにロマン・ロランを含めた彼らの塑像を制作しました。この渡仏から25年以上をフランスで過ごした高田博厚は、滞在中も日本の作品展に出品、またパリの画廊での個展開催、カンヌ・国際映画祭の日本代表として認められるなどしたほか、第二次世界大戦中は朝日新聞の特派員として活躍し、現地のレジスタンス運動の支援も行っています。

 

 

その後、1957年に日本に戻る際には、フランスで制作した作品は持ち帰らず、大量の書籍のみをもって帰国。再び東京に住み始めると、以降は彫刻の高村光太郎賞の審査員や東京芸術大学の講師、新制作協会の会員など要職を務めました。60代の頃には彫刻作品の制作も行いながら、『パリの巷で』などの書籍をいくつか出版し、個展の開催なども行っていきます。75歳の時には勲三等瑞宝章を受章し、そして1987年、87歳で息を引き取りました。

 

 

 

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