鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)
明治初期から昭和初期に活躍した洋画家で、写実的な画風を得意としています。風景画や肖像画など優れた作品を多く制作し、関西美術院の院長も務めました。
鹿子木孟郎の歴史
鹿子木孟郎は岡山県の藩士の三男として、1874年に生まれました。若い頃から故郷で画家の松原三五郎の開いた画塾・天彩学舎で油彩画を学び、10代半ばで一時は上京しましたが体調を崩し、帰郷して中学の図画教員を務めています。2年後に再度東京へ向かうと、パリ万博の出品監査員なども務める画家の小山正太郎が主宰した画塾『不同舎』に入りました。その後、鹿子木孟郎は埼玉県や三重県、滋賀県で美術教師を務め、26歳の時、念願の渡欧を果たしています。
鹿子木はまずアメリカのボストンに訪れ、現地では一緒にボストンへ向かった日本の画家たちと『日本人水彩画家6人展』を開催。好結果を残すと、ボストン到着から約1年後にパリへ向かい、1866年に始まった私立美術学校アカデミー・ジュリアンの巨匠ジャン=ポール・ローランスに学びました。約3年間フランスで修業し帰国すると、当時日本の洋画壇の中心にあった美術団体『太平洋画会』の作品展に出品しています。一方で拠点は関西に置き、京都で開いた画塾で生徒に絵を教えたほか、教育者として名高い浅井忠と共に関西美術学院の設立に尽力しました。そのほか帰国してから2年の間に鹿子木孟郎は美術雑誌の創刊や詩集の挿絵を手掛けるなどし、1906年、再びジャン=ポール・ローランスに教えを受けに渡欧しています。渡欧中に制作した作品『少女』はサロン・ド・パリでアカデミー・ジュリアン一等賞を受賞しました。
やがて日本に帰国すると関西美術院長のほか帝展や文展の審査員など要職を歴任し、関西の画壇の中心人物となっていきます。そして40代になり関西美術院の院長職を降りたあとも、洋画制作の探求心は収まらず、再度フランスに訪れ、ジャン=ポール・ローランスに3度目となる手ほどきを受けました。
このように生涯の内に幾度とフランスを訪れ、西洋美術を日本に普及させるために尽力した功績により、鹿子木孟郎はフランスからレジオン・ドヌール勲章を授与されています。
アカデミー・ジュリアン
1866年に画家のロドルフェ・ジュリアンが開校した個人学校が始まりとなっている私立美術学校です。残念ながら現在は残っていませんが、代表的な卒業生にはアルフォンス・ミュシャやマルセル・デュシャン、アンリ・マティス、高村光太郎や安井曽太郎など日本でも非常に有名な画家たちが揃っています。
元来はフランスの国立高等美術学校であるエコール・デ・ボザール入学を目指した準備学校とされていましたが、まだ男女差別の残る時代の中でこのアカデミー・ジュリアンは女生徒も受け入れており、次第に独自の教育姿勢を確立していきました。フランス国内だけでなくアメリカや日本などの諸外国からも生徒を受け入れる、間口の広い美術教育機関としてその規模は大きく成長しましたが、創立100年の年に新たな美術学校の結成に参加したことでその歴史に幕を閉じています。