和骨董大辞典

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麻生三郎(あそうさぶろう)

 

大正初期に生まれ、平成前半にかけて活躍した洋画家です。

主に描いたのは人物像やデフォルトされた自身の内面を表現した作品で、どれも褐色や黒色など暗めの色を画面全体に使用しました。

 

 

麻生三郎の歴史

 

1913年に東京で炭問屋を営む家に生まれました。麻生太郎が生まれたのは明治時代に外国人留置地となっていた明石町で、西洋文化が比較的身近に感じられる環境で育っています。その後、明治学院中等部に進学すると、同舟舎洋画研究所にも通ってデッサンを本格的に学び、17歳で太平洋美術学校に入学しました。ここでは靉光や松本竣介などの芸術家たちと出会い、交流を深めましたが、入学から3年後には学校を辞め、麻生三郎は個人で活動を始めています。その後23歳になると画家仲間たちとエコール・ド・東京の設立に尽力し、翌年、同団体の展覧会に自身の作品を出品しました。

 

1938年には約半年間、ヨーロッパへ周遊に向かっています。フランスやイタリア、ベルギーなどを訪れ、古典絵画を見てまわりましたが、第二次世界大戦の影響を受け、年内に帰国しました。帰国後は新たに前衛芸術家を集めた美術団体・美術文化協会や、太平洋美術学校で出会った寺田政明や靉光などと共に新人画会を立ち上げ、戦時下で取り締まりの厳しくなる中でも制作活動を継続しています。この間にはヨーロッパ滞在中に制作した作品の発表や、イタリアでの経験を編集した「イタリア紀行」の出版も行いました。また、徴兵は不適合とされ免れたものの、1945年には空襲でアトリエと、大量の作品を失うこととなっています。

 

戦後、1947年には新人画会のメンバーで自由美術家協会に合流し、以降は世田谷に建て直した自身のアトリエにて、家族や周辺の日常風景を主題とした作品を描いています。また、39歳からは武蔵野美術学校で教壇に立ったほか、小説の装丁を手掛けるようになるなど、活躍の幅を広めていきました。個展の開催や作品集の出版なども積極的に行い、2000年、87歳で息を引き取りました。

 

 

 

美術文化協会

 

麻生三郎や靉光、寺田政明、長谷川宏などをはじめとした芸術家41名が会員となっていた、1939年創立の美術団体です。当時の前衛美術家が多く集まっており、絵画以外にも、写真や彫刻など多岐に渡る分野で活動を行いました。

第二次世界大戦中に会員が拘束されるなどしていますが、戦後には活動を再開し、現代にまで続いています。

 

 

 

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