和骨董大辞典

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黒田重太郎(くろだじゅうたろう)

 

明治時代中頃から昭和後期にかけて活躍した洋画家です。関西美術院にて初代の理事長を務めたほか、次男は染色家であり嵯峨美術短期大学の学長を務め、そのほか甥は画家となるなど芸術の才能に秀でた家系の1人でもあります。

 

 

 

黒田重太郎の歴史

 

1887年、滋賀県で生まれた黒田重太郎は、大阪で育ちました。その後17歳の時に京都にて、洋画家の鹿子木孟郎に絵画を学び始めます。翌年には浅井忠に師事するようになり、25歳の時には文展に出品した作品『尾之道』が初めて入選となりました。さらに30代になるとフランスへ渡り、絵画と西洋美術史を学び1年後に帰国しています。そして渡欧中に描いた14点の作品を二科展に出品しました。これらの作品には、ヨーロッパで目にしたと思われるピサロの作品からの影響がみられ、これを機に黒田重太郎は二科賞を受賞し、重ねて二科会員としても認められています。

 

1921年には再びフランスへ渡って技法や画論について学び、そのほか、キュビスムの画家として知られる画家、アンドレ・ロートの影響を受けました。この約2年のフランス滞在の間に描いた作品はのち日本で二科展に出品し、二科会々員として認められるきっかけとなっています。絵画や美術書の執筆活動なども行いながら、50代の時には二科会を脱退し、仲間たちと共に「第二紀会」を設立。同展覧会に作品の出品を続けながら、信濃橋洋画研究所や全関西洋画研究所の創立にも尽力するなど、関西の洋画壇を盛り上げ、後進の育成環境の充実にも徹しています。

 

以降、京都市立美術専門学校や京都市立美術大学洋画科の教授および名誉教授、二紀会の名誉会員など要職を歴任しました。晩年には芸術院恩賜賞を受賞したほか、第1回の渡仏後からは『セザンヌ以後』、『素描・色彩の研究』、『小出楢重の生涯と芸術』などそのほかにも多くの著書を残しています。

 

 

 

カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)

 

19世紀にフランスで活躍した印象派に属する画家です。デンマーク領であった島で金物屋を営んでいた家の生まれですが、20代の頃に画家を志すようになりました。画塾に通ったのちサロンへの出品もしましたが、やがて日本でも人気のあるモネやセザンヌ、ルノワールなどと共に戸外制作を行うようになります。普仏戦争後には印象派の礎ともなる第一回目の印象派展に出品し、その後全八回に及ぶ同展すべてに出品しました。

印象派に属する作品を多く残していますが、50代の頃からはジョルジュ・スーラなどから影響を受け、新印象派主義と点描画の制作に打ち込んでいます。1903年、73歳でこの世を去りました。

 

 

 

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